余計に意味のない大根

 意味の無い大根があるということは、意味のある大根があるという事だ。

意味のある大根とはなんだろう。

本質的に、価値とは相対的なものなので、ここでは、観測者はその大根をどういった価値に基づいて評価しているかがポイントになるだろう。

 栄養の有無を価値基準に設けるならば、意味のない大根とは、水分ばかりで栄養の無い、きゅうりのような大根の事を言うだろう。さらに、スが沢山入った物は、余計に意味のない大根と呼べるかもしれない。

 ただ、それは栄養の有無を基準にした場合だ。もしかしたら、そのスの入った大根がきっかけで、隣に座る気になるあの子と会話が出来るようになるかもしれない。もしそうなった時、果たしてその大根は、本当に余計に意味のない大根と呼べるのだろうか。

余計に意味のない大根の一例
出典:https://odayakana.net/daikon-su-mekiki/

A:うわ!この大根、ただでさえ栄養が無いのに、スが沢山入ってた!

B:やめて。今私、ただでさえ栄養の無いのにスが沢山入っているような大根の話なんて聞きたくないわ。

A:どうしてだい?こんなに沢山、スが入っているんだよ?

B:それは、私に対する当てつけ?私が、ただでさえ栄養が無いのに、スが沢山入っているような中身の無い大根そっくりだと言いたいのね。

A:え!? ・・・いや、そうだ。その通りだよ。君の心は今、ただでさえ栄養が無いのに、スの沢山入った大根のようにスカスカだ!

B:無礼な人。私を虐めて何が楽しいのかしら。

A:だから!僕が君の栄養になる! 僕なら、君の中のスに栄養を注げると思うんだ。いや、僕にしか出来ない事だ!

B:!! そう、あなたがそこまで言うなら、話を聞いてあげてもいいわ。本当に、私の心に栄養が注げるのなら・・・ね。

N次元文学について

 通常、文学とは1次元で描かれる。一本のライン上に文字を配置し、直列式に、順番に物語を紡いでいく。かく言うこのブログも、1次元で書かれている。我々の多くは言語を直列式に考えて表現しているので、1次元の文学は無理の無い表現技法と言えよう。

時代は並列処理 

 しかし、本当にこれで良いのか。今やコンピュータは、並列処理を基本とした構造になっている。人もまた、昨今では右脳的と呼ばれる並列処理による思考が重要視されている。時代は並列処理なのだ。この世界だって、もしかしたら無限に広がる波動関数による並列世界の一つにしか過ぎない。そんな中、直列的思考に依存した言語表現に未来はあるのか?  否。間も無く訪れるであろうシンギュラリティを超えた時、コンピュータはコンピュータ自身の手によって、人智を超えた新たな言語を構築するであろう。それは、この世の最小単位(紐?膜?)の量子的振る舞いをモデルにした、11次元言語である事が予想される。それは、この世界のミニチュアそのものだ。

11次元のイメージ
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/String_theory

 或いは、遠い未来にはより形而上的会話の為に、G↑64(4)次元言語が生み出されるかも・・・?その時、人類はコンピュータの英知を前に、ただ平伏すしかない。彼等の言ってる事はわからないが、少なくとも、愚かな人類の考える事よりはましだと、人類は思考する事を諦め、全知全能のコンピュータのペットとして、永遠の天国で生ける屍となるであろう。

 そんな未来を易々と受け入れるわけにはいかない。我々は1次元の文学から卒業し、来るべく新時代のコンピュータに負けない文学を創り続けるのだ。

2次元文学作品の作り方

 というわけで、私は手始めに2次元文学を勧める。作り方は簡単だ。まずは表計算ソフトを開こう。仮に、そこに「おにぎり」と書くとする。まずは、新規で開かれたシートの一番左上のセルA1に「お」と入力しよう。それが、記念すべき2次元文学の第一歩だ。次に、新しいシート、第2シートを開く。同じくそこのセルA1に「に」と入力。同様に、第3シートのセルA1に「ぎ」。第4シートのセルA1に「り」。こうして、セルA1の領域のみで「おにぎり」を表現する事が出来る。これでは一度に読めないじゃないかという人は、プリントアウトして並べて読むなり、gif画像に変換して読むなりしてみよう。

 次に「あおぞら」を入力してみよう。使用するセルはB1だ。シート1のセルB1に「あ」、シート2B1に「お」、シート3B1に「ぞ」、シート4B1に「ら」。するとどうだ。「おにぎり」に壮大な背景が生まれるだろう。次はセルA2だ。ここには「はらぺこ」と入力する。シートの1から4のセルA2に、それぞれ順番に「は」「ら」「ぺ」「こ」と書いてみよう。「おにぎり」に纏わる背景はより多層的になるであろう。最後に、セルB2のシート1から4には、「ぎゃくさつ」と入力しよう。そう。この世界は沢山の物事が並列に進行している。あなたが、青空の下でおにぎりを食べている時、世界のどこかでは虐殺が起きているかもしれないのだ。  このようにして、2次元文学は多層的な世界観を並列に、同時間軸に表現する事が可能だ。一言では言い表せない、壮大な景色を同時に表現する事も可能だし、全く違うシーンを同時進行的に描く事も可能だ。

2次元文学作品
「おにぎり」

そしてN次元へ…

 あなたにやる気があるならば、3次元文学に挑戦してみよう。これは、大きな立方体を一つ一つの小さな文字が構成している所を想像しよう。この文字は1フレーム毎に変化する。もしこの立方体が10×10×10文字分の大きさで、60フレームあるとしたら、その小さな立方体には6000文字分もの密度がある事がわかる。3次元文学を駆使すれば、2次元文学では困難とされてきた、物・空間の立体的表現を容易なものとするだろう。

こちらはイメージ図。この文字が1フレーム毎に変化する。内側に文字は存在する。
出典:http://www.pxleyes.com/photoshop-picture/4eddf64faf446/Rubix-cube-of-life.html

 4次元文学ではさらに、時空を超えた文学的表現を、「時空を超えた」なんて形容せずに表現出来るようになる。その時人類は、文字通り時空を超えた想像力、表現力を手に入れるのだ。 私はこのような次元を超えた文学を総称して、N次元文学と呼ぶ事にする。Nの可能性は無限だ。いずれ、我々は11次元文学を、G↑64(4)次元文学を、\(\text{FOOT}^{10}(10^{100})\) 次元文学を開発するだろう。

N次元文学の求道者

 ちなみに、N次元文学を考えたのは私だけではないようだ。大阪大学で物理学を研究している橋本幸士教授も、なんと2次元文学作品を作っていた。当ブログは空間が2次元であるのに対し、こちらでは時間軸を2つにしている。これによって、たった2次元で並列世界的描写が可能になっている。

メレポッペ

チャポーペンチョコアヒャットン

ミュルリ

メレポッペ

チュピチュペチュピチュピチュペチュピピポッペピピピピピピ

ピケノンピケノンピケノンピケロト

ブユセンポクートセンカタアソラン

ニンノヘ

アエンヘホスレ

セゾフトンアゴストンジャポロネスオミョミョン

ズンヴェヴェンラビュヴェングレストタートアンマハート

オウンバスカットゴニュゴ

ゲストルビットガユンデランター

マガット

ガンゲルベルベルブルットパラット

タカノヘ

アヤノサコエダカシントコセンベン

チコチョーーーーーーーーーーーーーーーーーーラプンポン

クベシュトビンビン

ミュルリ

メレポッペ

ソフトウェア的延命法

 人の生きているという定義は、ハードウェアかソフトウェアかという二つの視点で捉える事が可能だ。

 ここで言うハードウェアとは、人を構成する肉体、特に脳の事を指す。

つまり、脳が生きている事が絶対条件だ。多くの細胞は早くて数週間、遅くても数年で入れ替わる。心臓や歯は入れ替わらないが、別に人口の物に変えても死にはしない。

しかし脳はどうだ。脳の神経細胞も細胞分裂ではほとんど入れ替わらない。そこには神秘性がある。ブラックジャックみたいに脳の移植をした者を同じ人間とは呼べない。

 以上がハードウェア的視点による命の定義だ。

これに対し、例え脳の移植をしたとしても、その人の人格と記憶がオリジナルから連続性をもって引き継がれているのなら問題無いのではないか?というのがソフトウェア的視点である。

記憶と人格はそのまま継承されているので、外見でその人の違いを見つける事は出来ない。本人でさえ、自分が入れ替わったとは教えられないとわからないだろう。

 このソフトウェア的視点が許されるなら、人は事実上の不老不死を実現出来る。

自分の肉体が老化したら、新しいクローンに更新すれば良い。記憶と人格さえあれば良いので、いっそ、コンピュータの中でオンライン生活をしつつ、いろんな国のサーバーに自分のバックアップを保存しておけば、いざという時に簡単に復活も出来るだろう。地球がダメになった時の脱出も、肉体がある時の何倍も楽だ。コンピュータの性能にもよるが、うまくやれば人体よりも圧倒的に軽くて小さいプロセッサになるかもしれない。何より、食べ物もトイレもベッドもいらない。

そういったコンピュータを太陽系の比較的安定した惑星の地下にでも埋めておけば、いざという時の脱出もメール送信で済む。

ソフトウェア人間の行き着く先
『2001年宇宙の旅』©1968 Turner Entertainment Co. All rights reserved.

 しかしこう考えるとどうだろう。

 日本からブラジルに行く際に、ブラジルに自分のクローン人間を準備しておき、そこに日本にいる自分の記憶と人格をスキャン及びメール送信する。この時、日本にいるオリジナルはスキャンされただけなので、まだ元気である。しかし人権は一人につき一つしか認められないので、日本にいるオリジナルの自分は処分されてしまう。だけど人権と一緒にブラジルに送信され目覚めた人は、主観的には何の問題も無くワープしたように感じるだろう。

一方、日本にいる本人としては、ブラジルにメールを送信したら殺されたようなものだ。

このドアを出た個体は果たして同一人物なのか・・・?
出典:藤子・F・不二雄「ドラえもん」より

 このように書くと、ソフトウェア的視点は荒唐無稽のように聞こえるだろう。

だが我々は、現に色々な方法でソフトウェア的延命法を試みているのではないか。遺伝子はその典型的例の一つだ。これは主観的なものの見方だが、細菌や単細胞の行動原理は、個体の保存よりも遺伝子の継承の方が優先度は高いように見える。虫の中でも、生殖のために死ぬタイプがいる。我々人でさえ、子供を作るという事は、死にたくないという自分の気持ちの表れではないのか?

 自分が死ぬ前に何か残さなきゃという気持ちは、実にソフトウェア的である。何か事業を継承させる、本を書く、映像を撮る、他人に自分の事を覚えてもらう。これらは、ソフトウェアとして何かしらの形で継承された自分自身だ。

これらの方法は、完璧に自己を継承する事は出来ないが、少なからずの継承は可能だ。

この僕の書いているブログも、そのようなソフトウェア的延命法の一つかもしれない。

ソフトウェア的延命法の一例

 現代は、ソフトウェア的延命法が実に多様な形で可能だ。みんなも色んな方法でソフトウェア的延命法を試してみよう。

ホームページ完成

3か月近く掛かった新ホームページ作りですが、ようやく一般に公開できる内容になりました。といっても、スケジュールをスッカスカですが。

昔のhtmlの知識はほぼ忘れた上にまるで役にたたず、復習の形で1から勉強しながら、スマホやタブレットの画面サイズにレスポンシブに対応しつつ、バランスが乱れないように調整する作業はかなり大変でした。

しかし自分の活動の拠点としてのホームページは前々から欲しいと思っていたので、とりあえず出来てうれしいです。

ただ、最近はSNSやアプリが主流で、特定個人のホームページで更新の確認をする人は少ないので、今度はそこら辺に対応出来るようになりたいです。

具体的には、PWA(Progressive Web Apps)なるものに挑戦したいです。これを導入すれば、appstoreに毎年11,800円献上しなくても、僕のホームページをアプリみたいにスマホのアイコンに表示させる事が出来るらしいです。プッシュ通知も出来るので、更新の知らせが直接的に可能になります。

ピキニッコについて

僕の行うパフォーマンスについてお話します。

はじめに、僕はこの表現スタイルの事を「ピキニッコ」と呼んでいます。由来は、僕の過去に書いた音響詩のタイトルです。単純に発音のニュアンスが楽しく、この表現スタイルを用いた初めての企画公演のタイトルに流用したのがきっかけです。深い意味はありません。

ピキニッコの様子
ピキニッコの様子

ピキニッコは、基本形としては独自の方法論に基づく、声と身体を用いた即興表現となっております。そこには演劇、音楽、ダンスの要素が複合的に混ざっており、それぞれのジャンルに特化したスタイルに対応する事が可能です。ステージではよく、声を出すダンサー、踊る即興ボイスパフォーマーとして出演する事が多いです。

ピキニッコでは基本的にテキストは使いません。振付も無ければ楽譜もありません。さらには伝統的な表現の型もありません。では、何を根拠にパフォーマンスをするかというと、「対話」になります。

人は、他人と対話をするときに一々台本を開いたりしません。相手の態度、機嫌、要求等を目線、姿勢、発音のニュアンス等から把握した上で、自分の伝えたい事を相手に伝え、そのリアクションとしての相手の話も聞き、双方向的に展開します。ピキニッコも基本は対話を軸としております。

ただ、対話と言っても、言葉は使いませんし、相手が人間とは限りません。舞台、客、共演者、椅子、照明等、その舞台にある要素全てが会話の対象となります。その情報の形態は多様で、且つ無限大に豊かです。ピキニキストは、これらから発せられる情報を感じ取り、自らも応答し、またそのフィードバックを受ける事によってステージパフォーマンスを続けます。

この考えは、巷で有名なアフォーダンスの理論と深く共通しているのではないかと思っております。今はまだアフォーダンスの理論をよくわかってはいませんが、これらに関連する本を読む事によって、僕のピキニッコ論はより完成度の高い物になるだろうという予感があります。

とりあえず今日はここまで。